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      MAIL MAGAZINE  梟雑話

       2002/08/12  [014]

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 ふくらうはふくらうでわたしはわたしでねむれない
                 山頭火の句
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床屋

美原には小さな日用品の売店が一軒あるだけで他には何にもなかった。
大人は近隣の町の理、美容院に何カ月おきかに行っていたようだ。
子供たちの散髪は、各家でお父さんかお母さんがやっていた。

私の家では父がやっていた。
冬以外は天気のよい日に外に椅子を持ち出して、首に日本手拭を巻き、大きな
風呂敷をケープ代わりにして、バリカンと鋏で四人の子の床屋が始まる。
バリカンで裾から刈り上げて、後は鋏で、私と妹はおかっぱ頭に、弟たちは坊
ちゃん刈りに仕上げるのである。
バリカンは良く切れないときがあって、刃の間に髪の毛が挟まって引っ張られ
て痛い思いをすることがあった。

四人の散髪は半日がかりだった。刈り終わると、石鹸をいれた器に水を少し入
れて、父の髭そり用のシャボンブラシをくるくるすると真白い泡がたち、顔中
塗られて顔そりが始まる。
鼻のしたの髭(?)をそるときは、歯との間に舌を入れるように言われた。
お猿のような顔になるのがいやだったがしないと叱られた。
私達はお互いのそれを見て笑いあうのだった。

私は髪の量が多く、髪質も太くて直毛であったので、前髪を揃えるのが大変だ
った。
櫛で抑えて切っても、髪の毛は滑って逃げてだんだん斜めになり、直して切り
揃えていくうちに、どんどん短くなって、しまいには額が丸出しになってしま
うのである。
男勝りの私は、スカートをズボンに替えたら男の子のようだった。
次の日学校へ行くのがいやだった。

父にとって大変な仕事であったろうに、私は長時間拘束されるのと、決して可
愛らしくは仕上がらない出来上がりを思って、前の日から憂鬱なのであった。

床屋が終わった後は、なぜかいつも決まって、「あわて床屋」の「春は早ようか
ら川辺の芦に、蟹が店出し床屋でござる、チョッキン、チョッキン、チョッキ
ンナー」という歌が口をついて出た。

その時代には頭ジラミは珍しくはなく、頭ジラミを梳きとるための櫛があった。
今のような細くて短い歯の櫛ではなく、ほぼ半円形(?)で隙間が狭く、長い
歯と少し短い歯が交互についているものだった。
それで梳くと頭ジラミが取れるのである。
生え際にしつこくついている卵はなかなか取れなくて、その頃は禁止されてい
なかったDDTをふりかけていたものだ。

余談になるが、その頃は春と秋に一斉大掃除があった。
各家は晴天の日に畳を上げて外に出し、乾かして棒などでバンバン叩いてごみ、
ほこりを出し、多分虫除けと、下からの風除けの意味での畳の下の古新聞を取
り除き、掃きあげた後、新しい新聞紙を敷き詰めて、畳裏にDDTをふりこん
で、蚤、虱を予防するというそんな時代だった。

中学になって親元を離れて親戚に預けられてからは、パーマ屋さんでカットし
てもらうようになったが、それはプロのすることで前髪はこの位にというとほ
ぼその通りになった。

子供が生まれてからは節約の意味もあって、子どもたちの散髪は私がやった。
子供が思春期になると、母さん床屋は最高のふれ合いの場となった。
前はこのくらいに、横はあまり短くしないで、もみあげはこの位に等注文を聞
きながら刈っていると、普段子供たちがあまり話さない悩み事、好きな女の子
のこと、学校のことなど話してくれるのである。

子供が大きくなると、何を考えているのかわからない、何も話してくれないと
言う事を耳にするが、私は床屋のふれあいをお勧めしたいと思う。
これは高校生になっても三人とも続いたのである。
それぞれ離れて暮らすようになって、子供たちは工夫して、自分で髪を刈るよ
うになった。

家に帰ってきた時には「母さん髪切ってくれ」と今でも言う。幸せなことだと思
っている。

  ふと子のことを百舌鳥(もず)が鳴く  山頭火

  ほころびを縫ふほどにしぐれる  山頭火

  火鉢ひとつのあたたかさで足る  山頭火

  ながい毛がしらが  山頭火

  ここに白髪を剃り落として去る  山頭火

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    著者 佐藤北耀

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