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      MAIL MAGAZINE  梟雑話

       2002/08/19  [015]

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 ふくらうはふくらうでわたしはわたしでねむれない
                 山頭火の句
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結核

日本では過去のものと思われていた結核が1997年頃から増える傾向にある
という。
昭和20年代、30年代は結核で亡くなる人が多かった。

弟と同学年の子のお母さんが、4人の子を残して結核で亡くなった。
お葬式の日、農場の人達がお見送りに集まった。金、銀、白の紙で出来たお葬
式用の花が、風でかさかさ揺れていた。
棺は馬車に載せられ、数台の馬車に乗った人々が、真狩の火葬場へと向かった。
私たち子どもは農場のはずれまでついていった。

葬列が少し離れてから私達は火の玉を見た。昼間だったのに本当に見えたのだ
ろうかと今になって思うがそう記憶している。燐が燃えるのだと聞いたことが
あるが、子供達はおばさんの霊が、4人の子供に思いを残し美原にお別れをし
たに違いないと語り合った。

その一年後位であったか、そこの家の長男が数ヶ月の療養生活の後、若くして
同じ病で亡くなった。頭の良い好青年だった。お気の毒なことだった。

三人目の結核の犠牲者は、研修生として来て働いていた青年だった。
色白の物静かな優しい人で、私たち子どもは夕食後よく遊びにいった。
色々なお話をしてくれたが、夏にしてくれた幽霊の話は、いまでも記憶に残っ
ている。

「ヒタヒタヒタ、廊下を歩く足音がするのでそっとついていくと、廊下には水
が滴リ落ちていて、やがて外に出て墓地についた。隠れて見ていると、お墓を
あけて骨をガリガリガリガリ・・・・震えて見ていると振り返って、見たなー、
青白い恐ろしい顔の女の幽霊だった」という他愛のない話だったが、子供心に
は恐ろしくて、夜お手洗いに一人でいけない日が続くのだった。

寮の部屋には難しい本が沢山あった。何人もの研修生がいたが、彼はインテリ
ジェンスがにじみ出ていて、子供心に尊敬の念を抱いていた。
やがて病院で療養をするために美原を出て、そのまま帰らぬ人となった。
父親に彼が亡くなったと聞かされた時の驚きと悲しみは、言い様のないものだ
った。

発見が遅ければ命を奪う恐ろしい病気だった。


  山から風が風鈴へ、生きてゐたいとおもふ  山頭火

  山の仏には山の花  山頭火

  春風の扉ひらけば南無阿弥陀仏  山頭火

  お山しんしんしづくする真実不虚  山頭火

  南無観世音おん手したたる水のひとすぢ  山頭火


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    著者 佐藤北耀

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